『残り香に、中庸の美を重ねて。』

和雪庵の使命 ― 失われゆく精神の継承

効率と速度が支配する現代。
私たちは、失われつつある日本の精神文化の静かな灯火を未来へと受け継ぐことを主に活動しています。
和雪庵は単なる茶道教室ではなく、時代に取り残されたかのような明治の建築物に宿る「精神」を、現代を生きる人々の心に再び灯すための「場」として存在します。

和雪庵茶室

明治から昭和、平成初期辺りまで、日本の生活に深く根ざしていた稽古文化は、今や一つのブームとして消費され、静かに去ろうとしています。
しかし、その文化が内包していた、人と人、人と自己との向き合い方は、デジタル化が進む現代においてこそ、その価値を増しているのではないでしょうか。

和雪庵が守り伝えたいのは、点前の「かた」だけではありません。その形が生まれる背景となった日本の自然観、空間に対する美意識、そして何よりも、人と人が織りなす交わりの原点です。
この場所と、ここに流れる思想がもし私たちの一代で途絶えてしまうのなら、それは計り知れない損失である。
その「心残り」にも似た切実な想いこそが、和雪庵の原動力です。
和雪庵は、この切実な想いを次代への確かな希望へと変えることをいつも心がけています。

和雪庵の器 ― 生きた空間としての「残り香」

和雪庵の礎は、明治の時代に建てられた一つの建築物です。
現代の規格・均質化された住宅とは異なり、明治時代の建築では図面を持たなかった時代、棟梁が先代から受け継いだ美的感覚で作り上げた、言わば「生きた尺度」でできた空間です。
柱の一本、畳の縁、天井の高さに、現代人がふと覚える違和感。それこそが、私たちが「残り香」と呼ぶものの正体です。

この「残り香」とは、目に見えない記憶の積層です。
現代住宅では見かけなくなった拭き漆仕上げの柱や天井、土壁の雰囲気や水屋への動線、客人の心を動かす装飾の数々。そこには、この地で茶の湯を嗜み、客人をもてなしてきた先人たちのもてなしの心と美意識が気配として確かに存在しています。彼らがその時代ごとに探し求めた「ちょうどよい」という感覚が、幾重にも塗り重ねられ、この空間の唯一無二の空気感を醸成しているのです。

和雪庵は、この歴史の積層をただ保存するだけではありません。
現代という新たな時代における「中庸の美」を、この空間に重ね続けることを自らの役割と定めています。
それは、古きものを絶対とするのではなく、かといって新しさに媚びるのでもなく、過去と現在が対話し、最も調和の取れた一点を探し出す営みです。

日本の伝統建築は常に自然と共にありました。
陰陽五行思想に源流を持つ二十四節気の移ろいを敏感に感じ取り、室礼しつらいを変え、季節の気配を室内に招き入れる。
和雪庵の空間もまた、季節の光や風、雨音によってその表情を刻一刻と変えていきます。
この生きた空間そのものが、私たちにとって最も尊い教科書であり、茶の湯の精神を体現する「器」なのです。

七宝焼の引手

和雪庵の道 ― 茶の湯と「吾唯足知」

明治時代、西洋文化の流入と共に日本の伝統文化は大きな岐路に立たされました。
いわゆる「道楽分離」の波の中で、千家が茶の湯を単なる「楽(たのしみ)」ではなく、精神性を探求する「道」として守り抜いた歴史があります。この先人たちの気概を受け継ぎ、「道」としての茶の湯を追求することは、茶人として最も大切にする心だと考えています。

その道の中心にあるのが「中庸の美」を探し求める姿勢。
華美に流れず、かといって侘(わび)に沈み込みすぎない。高価な茶器を求めることが目的ではなく、安易な妥協に流れるのでもない。その場、その時、そして亭主と客人の関係性の中で、最も調和の取れた一点はどこにあるのか。自らの審美眼を静かに研ぎ澄まし、最善を見出す精神。それが、和雪庵の目指す茶の湯です。

この精神は、京都・龍安寺のつくばいに刻まれた「吾唯足知(われただたるをしる)」という禅の言葉と深く響き合います。私たちは、常に何かを渇望し外部に豊かさを求めがちです。しかし、この言葉は、真の豊かさは自らの心の内にあることを教えてくれます。
「足るを知る」とは、諦念や妥協ではありません。自らにとって、そして一座にとって本当に必要なものを見極める、積極的で知的な選択です。
物質的な過不足に一喜一憂するのではなく、今この瞬間の精神的な充足にこそ価値を見出す。茶の湯の一連の所作は、まさにこの「吾唯足知」の精神を体感するための場と言えるでしょう。

湯を沸かし、茶を点て、一碗を捧げる。無心に繰り返される「形」の中に身を置くとき、人は日常の雑念から解放され、静かに自らの内面と向き合うことになります。
茶室という非日常の空間と、茶の湯という様式は、自らの心を映し出す静かな「鏡」となるのです。

主客一体の精神 ― 日本の交わりの原点

室礼を考えることが茶堂の楽しさの一つでもあります

茶の湯におけるもてなしは一方的な奉仕ではありません。
それは「主客一体」という言葉に象徴されるように、亭主と客人が共同で一つの時間と空間を創造する営みです。
亭主は客人のことを深く思い、準備を重ねます。客人はその亭主の心を汲み取り、敬意をもって一座に臨む。その相互の気配り、見えない心のやり取りの中に、日本の交わりの原点があります。

「主客一体」を実践することは、相手を知ることであり、同時に己を知ることにも繋がります。相手にとっての心地よさとは何かを考えるとき、人は自らの独善性や未熟さに気づかされます。
相手の一挙手一投足に心を配ることで、自分自身の立ち居振る舞いが磨かれていく。
このように、他者という鏡を通して自己を深く見つめるプロセスこそ、茶の湯が育んできた人間関係の極致です。

現代のコミュニケーションは、効率化され、言葉の意味情報だけが高速で行き交うようになりました。
しかし、私たちは本来、五感の全てを使って相手の気配を感じ、場の空気を読み、言葉にならない心を伝え合ってきたはずです。和雪庵が提供するのは、この身体性を伴った、深く静かな交わりの体験です。
一碗の茶を介して、心と心が通い合う。その濃密な時間は、希薄になりがちな現代の人間関係に、新たな潤いと深みをもたらすと信じています。

未来へ ― 心残りを、確かな希望へ

和雪庵が抱く「心残り」とは、この類い稀なる文化と精神が、継承者を失い、静かに歴史から消え去ってしまうことへの怖れです。この明治の建築も、人の手が加わらなければ、朽ちていくだけの過去の遺物となってしまいます。

だからこそ、私たちは行動しています。
和雪庵は、訪れるすべての人々にとって、単なる学びの場に留まりません。この生きた空間で「吾唯足知(われただたるをしる)」の精神に触れ、「主客一体」の交わりを体感し、自らと向き合う「鏡」を心の中に持つ。
そして、その経験を日常に持ち帰り、日々の暮らしをより豊かにするための糧としていただくこと。それが私たちの願いであり、約束です。

私たちの営みは、大海の一滴に過ぎないかもしれません。しかし、この小さな灯火を守り続けることが、変化の激しい時代を生きる人々にとっての、静かな指標となり得ると信じています。
心残りを、次代へと繋ぐ確かな希望へ。和雪庵は、その使命を胸に、今日もこの場所で茶の湯を続けます。

茶道ゼミの一幕